SEXストライキの切なさ

昨日から、Twitter界隈で、「戦争ラブな男とはHしない女の会」(http://sexstrike.seesaa.net/article/396057411.html)

なるものが発足したと騒がれていた。

 

この試み自体、ネタなのか、はたまた本気なのか推測しがたいものがあるが、私自身これを見て、ある種の切なさを覚えずにはいられなかったのだ。

 

セックスストライキに現れる、女性主体のセックス拒否による男性の思想改変を求める態度を見て、結局この方々にとっては、過激な言い方をすれば自らは「膣を貸してやってる女」でしかないのかなと思ってしまったのだ。

セックスって別に、女性が男性に従属している行為ではないだろうし、「その従属関係を崩してやったらお前ら性欲処理に困るだろう!この野郎」ってスタンスどうなの?

 

戦争支持者の男性とは、セックスをしないことによってしか、対話可能性(これ自体放棄してしまっている)はないのだろうか。

 

セックスを拒否すると宣言してしまう行為によって、さらに男女の階層性が再生産されてしまっていることに無自覚なのだろうか。

 

また、日本におけるフェミニズムってこんなもんだって思われてたらそれはそれでまた悲しいのである。

 

 

 

余りにわれわれは無力であるし、今日も生き抜こう。

 

 

 

 

 

 

中国で文化資本について考える

まず、社会学における、文化資本というジャーゴンについて、僭越ながら解説したい。

 

(そもそも、Pierre  Bourdieu (以下、PB)の読解に関していえば、まず私は仏語を介さないのと、日本で宮島喬や加藤晴久、山田鋭夫によって訳されている訳書を通して学習したということをまず断っておきたい。)

 

社会学小辞典では、PBの文化資本概念に関して以下のように説明されている。

 

所与の社会的場面(学校教育、職業生活、社交生活等)において行為者およびその集団が動員しうる文化の有利さ(有効性)の大小を指していう。それは個人的な能力や性向ではなく、社会環境の下で伝達される能力や性向であるから、通常、特定社会集団や社会的カテゴリーについて文化資本の大小、様態が論じられる。たとえば上層階層の子弟は、その家庭内の会話や目に見えない教育を通して抽象言語に接し、芸術に慣れ親しみ、それらを文化資本に転じることで、しばしば学校生活を有利に送ることが指摘されている。

 

例えば、私の北京大学におけるもっとも仲の良い先生と先日授業後に立ち話をしていて、驚いたのは、彼女の両親はともに北京大学卒業だということだ。

特筆すべきは、彼女自身は文革の少し後に生まれた人間だということである。

北京大学卒業生のご両親はいかに中国で生活しづらかっただろうか。おそらく、知識人として当時は辛酸をなめたかもしれない。

しかし、彼女は北京大学に入学し、卒業後にすぐドイツに社会学を学びに留学し、最近帰国して専任講師として北京大学で教鞭をとっている。

 

彼女の両親は北京大学を卒業したからといって、裕福になれるわけでもなかったが、一人娘の彼女は家庭内において、両親の薫陶を受けた。また、当時中国において、社会学を学ぼうという志を持つこと自体、奇怪であるし、そのあとドイツに渡航して博士を取得するにいたった構造に興味がある。

 

結果的になんと、豊富な文化資本を得たことだろうか。(彼女の趣味は、クラシック音楽である。)

 

文化資本というと、「経済資本に支えられたものでしょ?」と勘違いされがちであるが、必ずしも大金持ち(成金:中国では土豪)の子供が、当時の学校文化に親和的な文化資本を身につけるとは限らないのである。

 

 日本の場合だと、わが大学のように、豊富な文化資本を有していることと、ふんだんな経済資本を有していることは両立する場合が多いと思う。

 

しかしながら、中国は革命を経験し、文化資本と経済資本を両立させていたタイプの人々が、体制によって底まで下げられた。

このような転換が、80後、90後の世代にまで下って、どこまで押し戻されたのか。

 

私自身、中国人の同学を見ていて、日本以上に家庭背景に多様性があると感じるし、また個人のハビトゥスも画一ではない。 

ただ、これは個人的な雑感の域を出ないので、以後要観察。

 

ブログを始めたらもうおしまいだ

中学、高校時代の流行のホムペ(黒歴史)から、いまに至るまで、数々のSNSを利用してきたわけだが、大学四年にもなってブログを始めたら人生おしまいな気がします。

 

普段生きているだけで、多くの人の反感を買い、また自らも世の中に憤懣を抱き、ただでさえ生きづらいのに、また懲りずに社会に出ようとしている。

 

おそらく、人間の承認欲求と自己愛だけはどうしようもないのである。(この承認欲求を見たいと思ったら、大学のOBOG会に参加するといいです。そこは、まるで動物園のごとく、若者に成功体験を語り、「俺も若いころ苦労したし、お前らも俺みたいにすれば小金持ちにはなれる」と大演説をかましてくれる方々を拝見できます。世代間格差なんて言い出さないようにね!)

 

私自身は、日本でもともとOLをしながら、月一回ネイルサロンに通い、毎週女子会に参加していたのですが、ひょんなことがきっかけで、なぜか海外に飛び、何の役に立つかわからない社会学(理論)の勉強をしています。

 

この国における、社会学のあり方はまあまあ面白く、Sorokinを読んだり、Giddensの初期の著作を読んだりと、日本にいたころとはまた違った勉強をしています。

 

誠に恥ずかしながら、本来社会学に思い入れなどなく、前期大学入試が失敗し、社会学を始めることが決定した時、「私の人生はもう終わってしまった」と思いましたが、勉強すればするほど怒りっぽくなったことを除けば、社会学は私の性質にあっていると感じています。

 

最近、日本にいる友人が就職活動をしていたり終了していたりと、就活に関係のない私に連絡をくれるのですが、話を聞けば聞くほど、

「誰が人の能力を測定することができ、その測定の基準はどこに存在しているのか、まして能力とは何なのか」という問題にぶち当たります。

 

「できる奴は、見ればわかるんだ!」オジサンを除き、結構多くの人がこういう問題意識は共有していて、日本にも山ほど就活研究は蓄積されています。

 

 

あまりに嫌いな言葉すぎて、書きたくもないですが、コミュ力なんていうのも、ばかばかしい概念に間違いありませんが、就活を終えた友人に聞くと、「確かに存在する」なんて言うので、まあ実際に就活をしてみるか、本腰で就活研究するまで「能力測定の正統性」は語れないかなと考えています。

 

とりあえず、私は最近ますます研究者になるには頭が悪すぎるという自覚を強めているので、なんとか道を間違えないように、一般企業に就職することができるように願っています。

 

どうか、私を社会学という魔物から早く切り離し、現行の社会制度に怒りを抱かない穏健にこやか真人間にしてくれ、神よ。アーメン。

 

 これからは、こちらで読んでいる文献や授業の紹介、また社会不満の発露としてこのブログを活用できればいいかなあと思います。

 

世の中、自分以外みな先生、みなさまご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。