飾り窓の中のおんなたち

各大学で催されている「大学ミスコンテスト」。

毎日テレビで可愛い笑顔ときれいな脚を見せてくれる「女子アナウンサー」。

 

もはや世の中で当たり前のものとして受け入れられているこれらのものを見るたびに複雑な気分になる。

ミスコンも、女子アナの選考も、各人が「自由意思」のもと受験しているのだし、女性が彼女らの持つ美貌を資本に何らかの競争に参加する自由はあるんだろう。

私は、小さいころから女子アナウンサーになることを夢見て、学生時代からアナウンス学校に通い、努力をしていた友人を知っている。

彼女は残念ながら女子アナウンサーにはなれなかったが、努力している様子を見て、「男に媚を売るような職業につかないほうがいい」などとは言えなかった。私は、ただ彼女がアナウンサーになれればいいなと思っていた。

 

しかしながら、わたしは日常的に産出されている「女性の美貌判定」の光景に愕然とする。

前働いていたアルバイト先では、秋口になると毎年求人情報誌に掲載する職場写真を撮影する。

その際、男性正社員が選出するのは決まっていて、バイト先の美人女子大生2人だった。

私が普段の業務に勤しんでいる最中に、男性正社員が彼女らを呼びに来て、彼女らがカメラに向かってニッコリ笑う様子を撮影する。

「ああ、求人情報誌には美人が載ると効果があるんだな」と思った。

 

そのアルバイト先には、もちろん男子学生も多く所属していたし、正社員を含めた構成比で考えると、どちらかと言えば男性のほうが多かった。

普段の職場の内実を伝えようとするなら、マジョリティである男性正社員と男子学生を撮影してもいいだろうし、実際に業務に取り組んでいる様子を撮影してもいいだろう。

だが、毎年掲載されるのは「美人女子大学生がカメラにニッコリ笑う写真」なのであった。

理由としては、人間の原初的な美醜の感覚に照らすと「美女」はもっとも私たちに感覚的に訴えやすいからなのだろう。

 

 

私たちは、女性を見るとき、きわめて無意識的に美醜を判定してしまっている。

男性に対してもそうだろうと言えるのだろうが、女性の生まれつきの美醜が俎上に載せられることの多さに男性のそれはかなわないだろうし、醜い顔をした女性がバカにされることの多さにも男性のそれはかなわない。

ハイレグ水着を身につけ、胸元にスリーサイズが書かれたプレートを下げて、ステージを一周する美人コンテストはある。

だが男性の場合は、ボディビルダー以外に、水着をきて、胸元に「性器の直径、長さ」などをバストサイズの代わりに記したプレートを下げて女性の前を歩き回るイベントを見たことがない。

 

さらに男性の場合には、顔の醜い有名政治家も多いし、社会的成功者も多い。

どちらかと言えば、外見の美醜よりも「後天的に身につけた能力」が問われているのだろう。

 

男性のお眼がねに適うかどうかの公的行事、もっと言えば日常的な「美醜判定会」的出来事の多さに、まるで私たちはいつの間にか自然に飾り窓に入れられているのではないかという感覚を抱く。

 

飾り窓から私たちは見られていても、中から何かを表明できる構造になっているかどうかいまだに私にはわからない。