教養ってそんな偉いのか?

先日記した中国の動画に関して、まだひたすら考えている。

「男は外に行き、女は家にいる(中文:男主外,女主内)」という規範が強かったことや、文化大革命の影響もうけ、十分な教育機会に恵まれなかったおばあさん。

 

彼女は、「教養がない」なら、家族の生活に口出しできないのか?

私自身は、教養の多寡自体、測定の方法、「そもそも何が教養なのか」という認定の問題をはらんでいるので、重要ではないと考えていた。

 

しかし、実は私がこの問題に関してダブルスタンダードを持っていることに気づいて以来、それが頭から離れないのである。

 

このおばあさんのような方に対しては、彼らが何を言おうと「教養はそんなにエライもんでもないですよ。自信もって!」という態度なのにも関わらず、

同じ大学在籍者や大卒以上の学歴を有している方が、少しでもポリティカルコレクトネスに反するような発言をしているのを見ると、「お前さ、もうちょっと本読めよ!」と言いたくなるのである。(ってか、実際言ってる)

 

反省的にこれを考察すると(認識を認識していくこと自体が無限後退であるけども)、文化資本の問題は私にも関係し、私自身を明らかに認識しないことには、研究客体の認識もできず、この過程自体が車輪の両輪なのである。

 

 

人間が何らかの一貫性を有しているべきという考えを持ったことはないので、ダブルスタンダード大歓迎なわけだが、この恐らく文化資本の極端な差がもたらす研究主体と研究客体の構造化された態度の違いをもっと考えていきたいのである。

 

 

追記:この前Twitterで話題になった「ヤンキーの友達いる自慢する社会学者」像に少し似ているかもしれない。