山の手ぎらい

暇が極まって、図書館で日本語の本を漁って読んでいる。

寝ているとき以外、Twitterでも他人のブログでも何か文字を読み続けないと落ち着かないという完全なる文字中毒者なので、それを最近昔から好んで読んでいた竹内洋の本に移行できてよかった程度に思っている。

 

竹内洋を初めて読んだときの感覚は、今でも忘れられず、「私の嫌いな山の手的文化(都市中間階層が持つ社会化された身体)と、もっと嫌いな農村的ど根性文化に根ざした教養主義(竹内は、フランスの貴族子息が通うようなエコール・ノルマル・シュペリエールの教養主義と違って、日本の教養主義を帝国大学内で最も地方出身者の多い文学部が作り出した衒学的教養主義だと言っている。)をここまで皮肉っぽく分析できるのか」と思いながらにやにや読み進めた記憶がある。

 

山の手文化で育ってきたような石原慎太郎が、農村的香りを持ったインテリ文化に慣れ親しめなかったように、現在の国立(くにたち)大学にも実は「石原慎太郎」がたくさんいる。

ツイッターでまず同大学学生を複数捕捉して、一週間程度様子を見てほしい。

100,200人程度フォローすれば、おそらく「勉強以外の暇つぶしの方法を知らず、頭でっかちで痩せっぽっちの、ファッションセンスもない芋学生」叩きが見られるだろう。

実は、その芋学生を叩く層も現在では分厚く、生粋の山の手文化を体現していてある程度洗練された社会化された身体を持つ者もいれば、「どの口が言っているんだ」と疑問を呈さずにはいられない汚れたセルフレーム眼鏡をかけた者もいる。

 

しかしながら、層の分厚さとは裏腹に、彼らには共通点がある。

 

農村を後背地としたインテリや教養を毛嫌いしているのだ。

かつての岩波文化のような、旧制高校や官立大学のガリ勉が机上の空論によって作り上げたような教養主義は野暮臭くてたまらないのだろう。

しゃかりきになって勉強に励み、ファッション誌のかわりに図書館で借りた専門書を読み、国立市から一歩も出ず生活を完結させてしまうような日常は、「マジださい」のだ。

特に、国立(くにたち)大学の場合、その地理的条件も手伝ってか、都市部にある大学への憧れにも似たコンプレックスは半端じゃない。

銀杏くさい大学通りより、ライトアップされて高層ビルの立ち並ぶ都市的雰囲気のあるキャンパスに通いたいし、そんな大学周辺に居住したい。

1955年前後に石原慎太郎が抱いたような、野暮臭さへの嫌悪は受け継がれているし、今では都市的雰囲気を持った他大学へのコンプレックスまで生み出している。

こういう話には、石原のほかに、田中康夫への言及も欠かせないのだが、ここでは時代をすっ飛ばして書いている。

 

以下、石坂洋次郎の『若い人』から傷口に塩を塗るような文章を引用したい。

 

 

  草深い片田舎から都会に勉強に出た女子大学生がいつか都のハイカラな風に染まって、淳朴で皺くちゃな田舎の両親を、これが自分の生みの親ですと言って人の前に紹介することを羞図かしがる、そんな軽はずみな気分のものを貴女の古い物嫌いの中に感じて仕方がないんです

 

いまの私には、パリのグランゼコールに入学して、居心地の悪さを感じたブルデューの気持ちが少しわかるような気がする。